2013年3月8日金曜日

「内田百閒」

ご承知の通り…というほど皆さんがご存じかはわかりませんが、内田百閒(うちだ・ひゃっけん)は夏目漱石の弟子です。

私は昔から百閒先生の随筆を読むのが大好き。短いし、スパイシーで、おもしろいからです。そして、性格も似ている(と勝手に思っている)ので、親近感が湧くのですよね。

『間抜けの実在に関する文献』

『御馳走帖』

は手放せない本です。 百閒先生にぞっこんとなるきっかけを作ってくれた『阿呆列車』シリーズもそうですが、常に手に届くところに置いておきたい本なのです。

文字通り「手放せない」ので、どこへ行くにも大抵は百閒先生の本を携えている。それだけで心が和み、安心する。

でも『御馳走帖』のまえがきにあたる部分。

「序に代へて」
  昭和二十年夏の日記を抄綴す
これは何度読んでも胸が詰まります。

終戦直前の日本がどれほど物資に不足していたか。食べ物とお酒を即自的に捉えみつめてこよなく愛する百閒先生が、どれほどひもじく寂しい思いをしていたか。そして、そんな逼迫した日々の中で、百閒先生がどれほど学生たちに愛されていたか……が素朴な文章から伝わってくるからです。

好物をゆったり味わい、楽しむゆとりというのは、市井の人にとっては戦争のない時代にしか得られない幸福だと思います。

私は1か月以上放置した『御馳走帖』をまた読むときには、必ずと言っていいほど先の「序に代へて」を読み返します。

そして、当時の百閒先生の言葉を通じて、今ある幸福の重さを、ひしひしと感じるのです。






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